はじめまして、株式会社保坂屋の代表取締役、保坂昇進と申します。この度は、弊社の求人に興味をお持ちいただきありがとうございます。
1970年の創業以来、本当にたくさんのお客さまとご一緒してまいりましたがとても光栄に感じております。求人についても多くの方にお声がけをいただき感謝の気持ちでいっぱいです。誠意をもってお一人ずつお話をさせていただいておりますが、今一度改めて文章にて当社のことをご理解いただいたうえでお話しできたら、と考えこのような形を取らせていただくことをご容赦ください。
株式会社保坂屋は全部で20人前後と、まだまだ小さい組織です。ですから、当社のことを知っていただくには、私のことを知っていただくのが一番よいと思っております。小さな会社であればあるほど、その会社の器やチカラは代表である私と紐づいている、と考えているからです(これは私自身がこれまで数えきれないほどの会社や組織と知り合い、お取引をする中で感じていることでもあります)
そのため、このページでは株式会社保坂屋が生まれた経緯や、社長である私自身がどのような生き方をしてきたのか、それを事細かくお伝えしたいと思っております。是非、私のことを知っていただき、少しでもいいなと感じる部分がありましたらご連絡ください。
職人半分経営者半分の家系に生まれる
鍛冶職人から金物屋、そしてリフォーム事業へ
私は、新潟県は上越市というところで生まれました。人口18万人ほどの街で、上杉謙信の本拠地である春日山城で有名なところです。祖父と父を含めた兄弟が、隣の地域の糸魚川市で始めた刃物屋が株式会社保坂屋の起源です。その後父が上越市で商売を始め、私が引き継ぎました。いわば2代目社長になります。
とはいえ、祖父はもともと包丁などの鍛冶職人、父ものこぎりの研磨の修業をしていたこともあるようで、自分では経営者というより職人家系といった方がしっくりくるなと感じています。
祖父がはじめた刃物屋は、そのうち建設資材や電動工具なども取り扱うようになりました。上越市に営業所のような拠点を構え、そこに通うのは主に父の仕事だったそうです。片道約30kmの道のりは頻繁に行き来するには少々遠く、親に頭を下げて、この街で独立したと聞いています。
そのうち、今現在直接取引のある住宅設備メーカーから大工や工務店に繋いでほしいという声をもらうようになって、小売から卸も引き受けるようになり、商品も金物からサッシなどに広がっていきました。商売の形態や取扱商品の拡大に合わせて、業務自体も、販売から加工や取り付けに広げていった感じですね。
遊びの思い出ばかりが残る学生時代
外で遊ぶのが大好きな小学生
小学校時代は外で遊ぶのが好きな活発な子供でした。勉強が嫌いで、机にきちんと向き合った記憶がないですね(笑)。恥ずかしがりやで奥手なところもあるので、集団の真ん中にいるような友達にくっついてよく遊んでいました。同じ学校やご近所同士で遊んでいたら、一緒に遊ぼ!くらい誘うじゃないですか。そんな感じで、いつも誰かと一緒に過ごしていた気がします。
今でこそ小学校や中学校でお受験なんて珍しくもないですが、僕らのころはそんなこともなく(そもそも勉強は嫌いでしたが)、普通に地元の学区の中学高校に進学しました。
選んだ部活はサッカー部。スポーツも好きだったので、とにかく一生懸命打ち込みましたね。県大会で1回勝つくらいの強さでしたかね‥‥特別強いチームではありませんでしたが、仲間もできて充実した部活動生活だったと思います。楽しかったなぁ。勉強は、最低限宿題くらいはやっていましたし、週2回くらいは塾にも通っていました。ただし、試験はいつも一夜漬け。今思えば、社会人になるまでの学生生活を通して、これはあまり変わりませんでしたね(笑)。
とはいえ大学くらいは出ておきたいと思った高校時代、自分なりに受験勉強もスタートさせました。親からうるさく言われていたわけでもないのですが、なんとなく「家業を継ぐんだろうな」とぼんやり考えていたのを覚えています。
これといって学びたい学問が決まっていたわけではありませんが、東京には出てみたい!と思っていました。やっぱり都会には憧れるじゃないですか。いくつかの大学を受験しましたが、初年度は残念ながら失敗。浪人生活を送ることになります。
これはいかん、としっかりと受験勉強に打ち込み、1年後東京の立正大学という学校に合格することができました。本当は将来を考えて経営学科志望でしたが、そこは落ちてしまって。同じ大学の経済学部に進学することにします。
家業を意識しはじめた大学生時代。そして就職へ
さぁいよいよ始まった東京でのキャンパスライフ。勉強するほどヒマではありません(苦笑)。今振り返っても大学の授業はほとんど覚えていないですね…。友達とビリヤードやパチンコ、カラオケによく行っていましたね。たまに競馬とか友達の家でゲームもやりましたかね。遊びの思い出ならいくらでも出てくるのですが(笑)
それでも、働くことは嫌いではなかったです。大学3年生の時から親戚が経営するコンビニエンスストアでアルバイトをしていました。今ではよく見かけますが、当時地方では珍しいデイリーヤマザキというお店です。ちょうどこの頃から、家業について少しずつ真剣に考えるようになっていたと思います。家業に関連する分野の知識をつけたいと親に働き口の紹介を頼み込んだりもしていました。夏休みや冬休みといった長期のお休みが入ると実家に戻って会社の仕事をアルバイトとして手伝っていました。ゆくゆくは地元でこうして働くんだなと思うと、苦になりませんでしたよ。
かといって外の世界も知らないままに家業に入るのもよくありません。大学卒業後の就職先は住宅設備のメーカーを選びました。今はトクラスという名前になっていますが、当時はヤマハリビングテックという社名でした。その名の通りヤマハグループのため本社は静岡県の浜松市。入社式のあと1か月半の研修ののちに、大阪への配属が決まりました。
もがき続けた会社員としての経験
働くということの基礎を築いた大阪時代
大阪には営業として赴任しました。主力商品であるキッチンやお風呂、洗面台などの水回り機器を中心に、当時は建材も取り扱っていたので玄関のドアも担当していました。こうした機器や建材を扱う卸の問屋さんにPRや販売を行うのが主な仕事です。いわゆるBtoBの営業ですね。この業界は長く続いている商慣習があって、実際に商品をつくるメーカーから消費者まで2つから3つ程度、間に会社が挟まることが多いです。こうすることで小さな会社が在庫を抱えずにすんだり、仮に経営が難しくなってもきちんとお客さまに商品を届けられるような仕組みになっています。
他にもご紹介いただいた工務店さんにお邪魔して現場の情報を収集したり、特約店や販売店さんに見積もりをしたり…住まいづくりに携わる色々な人に囲まれて日々過ごしていました。
なかなか売れず大苦戦。得意先の営業マンとの同行で時間をつぶす日々
大阪勤務といっても1年目の若手は和歌山といった遠方を任されます。元気とガッツで新規を開拓してこい!みたいなところなのでしょうね。月曜日の昼間までは大阪のオフィスに居られますが、その後和歌山に移動。特急でも片道1時間以上かかるので、その日の夜から金曜まで和歌山でホテル住まいです。週のなかばはずっと県内中を回って金曜にまた大阪に戻ってくる。というのがお決まりのスケジュールでした。
今思うとこの日々はかなりしんどかったですね。大学出の新人が1人で見ず知らずの街に放り出されるわけですから。あちこち企業さんを周ってもなかなか成約までは漕ぎつけません。教えてくれる先輩が横にいるわけでもなく、和歌山県でぽつんとひとり。最初の方こそ、突撃した企業さんの中にはいろいろ珍しがってくれた方々もいらっしゃいますが、何回か訪ねればそんなものも通用しないわけです。
商談もきちんと進めば1時間なりかかりますが、断れれば5分で終わるもの。担当の物件が無ければやることもありません。毎日毎日ヒマだったのがいたたまれなかったですね。本当にやることがないので、お得意先の営業マンのアポイントに「配達手伝うから」といって同席させてもらったりしていました。向こうからすればいい迷惑だと思いますが(笑)、そのくらい追い込まれていたのだと思います。
お客さまのところに朝礼前にいって、ラジオ体操に混ぜてもらったりもしていましたね。そんなことして、何が売り上げに繋がるのか自分でもわかりませんけれど(笑)、とにかく何かあったらすぐ声をかけてもらえる距離にいたかったのかもしれません。
性に合わない東京のスタイル。そして退職
大阪では結局3年を過ごし、東京に転勤することになります。この東京での仕事もなかなか辛かった。大阪や和歌山で積み上げたスタイルは、とにかくプライベートも含めてお客さまに入り込んでいくというものでした。朝のラジオ体操の話もそうですが、相手の好みにアンテナを張って、ゴルフが好きだと聞けば一緒にゴルフに行ったり。相手からすれば自分たちは数あるメーカーの1つにしか過ぎないわけですから、どんなポイントであろうが自分のことをまず頭に浮かべてもらう必要がありました。
最終的には競合さんと先方のお得意先の状況だったり、価格的にいくらなら自分のところを採用していただけるのかといったところまでお話してもらえる関係性をつくっていくことが大事だったのです。
ところが東京ではスタイルがまるで違います。「この商品50万円で売れることになったから」「じゃあ特約店のあなたは40万円ね」「販売店のあなたは45万円ね」というような、ドライな流れ作業でした。メーカーが主導権を握ること自体はアタリマエなのかもしれませんが…やっぱり直売ではなく卸売りを主な業務としている特約店・販売店さんを挟んで商売しているわけなので、彼らとも一致団結して仕事がしたかったんですよね。その意味で東京のスタイルはどうしても自分の性には合いませんでした。
現に私のお客さまの中には、そうしたヤマハリビングテックの売り方が嫌いで「ヤマハリビングテックとは取引しない」と我々を毛嫌いする方もいらっしゃいましたね。話を聞くと、以前そうしたスタイルでヤマハリビングテックがガチガチに決めておろしてきたお客さまが、不渡りを出し大量の売掛金を回収できない事態になったそうです。いくら最終的な判断として取引を開始することを了承したとはいえ、相手のことも、交渉の条件も一切関知できずに受け取ったお客さんによって何千万円の損金を出すことになっているのですから、それは当たり前でしょう。
結局、東京でも、私は大阪のスタイルを貫くことにしました。その分営業成績は振るわなかったけど、仕方ありません。もしかしたらスマートではないかもしれませんが、地道に信頼を獲得するしかないと思っていたからです。
結局「ヤマハリビングテックは嫌いだ」と言っていたお客さまとは仕事に繋がることはありませんでしたが、1つだけ嬉しいエピソードがありました。ある日先方から「何棟分かのまとまった仕事があるんだけど、今すぐ決めなきゃいけなくて。掛け率だけでも教えてくれないか」と電話をかけてきたのです。競合相手のこともリサーチしてこちらの出方を決める必要がありましたし、僕自身も即答できる権限がなかったので結局ヤマハリビングテックに決めることはできませんでしたが…
半年前までは「オタクに頼むことは絶対ない」とまで言っていた人が、向こうから電話をかけてくれるくらいには関係性を回復できていたわけですよね。自分のやり方が正しかったかは今でもわかりませんが、少なくても間違いではなかったと確信できた瞬間でした。
この時、東京に転勤してから半年。自分なりのやり方を貫くのだという覚悟を決め、新しい場所で結果を出す基礎がようやく整ったなという時期でした。
しかし、私は、東京での2年目を迎えることなくヤマハリビングテックを退職することになります。
「辞めさせるつもりはなかった」所長の言葉
ヤマハリビングテックでの仕事も4年が経ったある日、実家から「そろそろ戻ってこい」と連絡がありました。いまだに何があったのかはわからないのですが、継ぐなら早めに現場を覚えさせて、という気持ちが親にもあったのかもしれません。自分なりのスタイルを東京で深めてみようという考えもありましたし、どうしたものか…と悩みました。
その時、大阪での新規開拓時代にお付き合いのあった会社のことが頭に浮かびます。我が家と同じく初代の息子が2代目で会社を切り盛りし、3代目の跡継ぎがスタンバイ中という状態でした。3代目はすでに会社に専務として入っていて、色々な改革を行っていたのですが、営業マンとして現場の方ともお話をすると、彼らはそのことに結構不満を持っていまして。改革の内容の問題なのか、進め方の問題なのか、はたまた個人の人間性の問題なのか。原因の深いところは外部の私にはあずかり知らぬところでしたが、そういうものかぁと現場の方からこぼれるお話を伺っていました。
今思えば社員ってみんなそういうものかもしれませんが、「跡継ぎ社長と会社」「跡継ぎ社長と社員」といった関係性を客観的に見て、新人社会人ながらに色々と感じたことを思い出したのです。
株式会社保坂屋でも似たような状況になるかもしれない。もちろん摩擦を避けるのでなく、しっかりと向き合わないといけないことも出てくるでしょう。
「早く実家に戻って、社員のみんなと汗を流す時間をつくろう」
そう思った瞬間、私は辞表を出す覚悟を決めました。
実は、このお話には後日談があります。
ヤマハの退職日にお世話になった当時の所長とお話をする機会がありました。すると、所長は「辞めることは前から知っていたよ」と言うのです。僕がいずれ家業を継ぐことはもちろんご存知だったのですが、「親に戻ってこいと言われたので」なんて辞表を出してきたら、許さないつもりだったと。
覚悟、と言うんでしょうか。ある意味用意された席に戻る立場ではあるのですけれど、決してそれは今よりユルイ場所に行くのでない。ということを改めて教えてもらった瞬間かなと思います。
地元上越市でさらなる飛躍を
幅広い住宅知識でお客さまの悩みを解決していきたい
株式会社保坂屋に戻ってからは、ほぼ営業一筋で今まで過ごしてきました。一時、バックオフィスといいますか、見積もりをつくったり、という仕事もしていましたがやっぱり性に合わなくて。奥手で臆病なくせして外に出たいのでしょうね。代表取締役などと言いながら、今でも担当のお客さまに会いに行っていますから。この辺りは小学生のころとあまり変わっていない気がします(笑)
株式会社保坂屋の強みはオールマイティさだと思っています。お客さまからの問い合わせに対して、取り扱っている商品のことはもちろん、もともと職人の系統ですからその商品が実際のお宅に設置されたときにどのような見栄えになるか、既存の設備とどのような相性か、といったところまでお話しできるのはウチならではですよね。
もちろん商品の販売だけ、工事だけといった一点に特化した会社にはかなわない部分が出てくるかもしれません。あるいは大手メーカーならば、水回りや建材といった部署が独立して別々の担当者がご案内できるところもあるでしょう。ただ、それはお客さまにとって本当に良いところばかりなのでしょうか?「水回りの商品はここの会社に相談」「ドアはあちらの会社からカタログ取り寄せ」「工事はこっちの担当者と調整」というように自分であちこち調べて交渉して調整して…といった手間をかけることなくワンストップで工事まで終わらせることができるのは大きなメリットだと思います。
住宅業界は、お客さまと業者との間の情報格差が大きい業界です。プロにとっては当たり前でもお客さまにとっては聞いたこともない、という情報がほとんどです。また商慣習も独特のものがありコスト構造も複雑です。一方、多くの人にとって、家を建てたりリフォームしたりといった経験は人生に何度もあるわけではありません。料理やスポーツのようにやりながら覚えていくということができないのです。それにも関わらず何百万円何千万円というお金が動いていく。
わからないことだらけの中で、仕事や家事や育児も行いながら、情報を集めて非常に大きな決断をする必要があるのです。そんな時、この人に聞けば全部やってくれる。という存在はきっと貴重でしょうし、そうなりたいと考えています。
「保坂屋さんにお願いしてよかった」
株式会社保坂屋の理念は「社員・お客さま・地域社会の幸せに貢献する」です。ここ新潟県上越市で創業して50年以上商売をさせて頂いていると、飾りではなく自然と地域へ貢献したいという気持ちがふつふつと湧いてくるものです。地域貢献というと何だか漠然とした話のように聞こえるかもしれませんが、株式会社保坂屋のお客さまは、ほとんどが地域の方ばかり。つまり目の前のお客さまの笑顔のために頑張れたら、それが地域のためになりますし、まわりまわって株式会社保坂屋のためになるのかなと思っています。
それではどうすればお客さまを笑顔にすることができるのか。それはお客さまがどのような暮らしを送りたいのか、夢見ているのかをしっかりと把握してそれに実現することだと考えています。月並みかもしれませんが、その仕事はお客さまの笑顔に資することかを考え続けることが大切ですよね。
そんな考えを改めて強くしたエピソードがありました。株式会社保坂屋では不動産事業も手掛けているのですが、ある日「実家を売却したい」というお客さまがいらっしゃいました。今はご実家とは別の場所に住んでおられて、処分を検討されていたようです。お話を伺い、売却先との契約もまとめ、ハンコをついたその後でお客さまが「本当にありがとうございました」と涙を流されたのです。
思い出の詰まったお宅を手放すという寂しさもあったと思いますが、それ以上に、離れた場所で暮らす中でご実家のケアを十分に出来ていないという後ろめたさのようなものを背負っていたのでしょう。そんな心の重荷を下ろすことができたという安堵感が大きかったようにお見受けしました。その家を大切に使っていただけそうな方を売却先としてご案内できたのも大きかったと思います。
私たちはごくごく真摯にご要望にお応えしていたつもりでしたが、「保坂屋さんにお願いして本当によかったです」と言っていただきこちらの胸も熱くなったことを覚えています。
これからの保坂屋を支える新サービス
住まいとは日常であり、全ての人々にとって暮らしのベースとなる場所です。だからこそお客さまが百人いれば100通りの思い入れがあり、ある意味人生そのものを指す存在にもなりうるのだと思っています。1件1件の仕事が、それだけの数の人生であると考えるならば、こんなにやりがいのある仕事は他にありません。先ほどの不動産のお話ではないですが、目の前のお客さまの満足が、必ず次のお客さまへとつながっていくのだと私は思います。
これからの株式会社保坂屋は、売上10億円を目指したいと思っています。今がだいたい7億円くらい。決して低いハードルではないですが絶対に達成したいですね。そのためにここ5年ほど注力しているのがリフォーム事業です。「リフォームたもつ」というサービスも新たに立ち上げました
「昼12時までの電話なら即日対応」「住まいのことなら些細な依頼も喜んで対応」「メーカー1年保証と保坂屋オリジナルの工事保証のダブル保証体制」の3つを売りにしています。建材メーカーとのタイアップによって住まいのリフォーム全般をお受けしており、毎月住まいにまつわる情報発信を行ったり、暮らしに役立つイベントを定期的に開催しています。また、先日このサービスとしては初の試みである常設のショールームを上越市内にオープンしました。私たちが扱っている設備や機材にいつでも触れていただけるのはもちろん、予算やコンセプトにあわせた柔軟な対応ができることもこのショールームでお客さまに直接お伝えできたらと思っています。
人口減少社会を乗り越える
日本はすでに人口減少社会に突入しました。今後、新築の数は確実に減っていくでしょうし、私たちが暮らすような地域では、すでに市場は縮小する方向に動いています。それは家を建てる人が減るだけではなく、家をつくる人が減ることも意味しています。高齢化による職人さんの減少や工務店の廃業も深刻な問題ですし、昨今は資材の高騰でなかなか住まいにお金をかけることも難しくなってきました。それでは、住宅業界はお先真っ暗なのか。私は決してそうではないと思います。
先ほどもお伝えしたように、住まいとは日々の生活そのものです。人口が減ったとしてもそこに暮らす人々がいる限り、住まいは必ず必要です。住宅にまつわるニーズが無くなることはありません。ただし、時代の流れとともに変化していかなければならないでしょう。
このような時代のなかで、住まいに手を入れて大事に使っていくリフォームが今まで以上に注目されることは間違いありません。新しく建てるよりもコストを下げられることはもちろん、サスティナビリティの観点からも一度手に入れたものを大切に長く使っていくという意識が当たり前になると考えられるからです。
その点、住宅機器の卸を50年以上やってきた株式会社保坂屋には地域に沢山にお客さまがいらっしゃいます。あのお宅にはお風呂を、こちらのお宅には玄関を。というように、この街で暮らす様々な方との接点をすでに保有しているのです。これは本当に大きな財産です。よそから大手が来ても一朝一夕でつくれるものではありませんし、ましてやお金では買えません。
そのようなお客さまを中心に、これから新しく住まいに手を入れていく方に対しても先ほどのショールームや情報発信によってアプローチを行って、お付き合いを増やしていく。そんなことを積み重ねていきたいですし、新しく仲間に加わっていただく方にも力を貸していただければと思っています。
安心して長く働ける場所
株式会社保坂屋では「誠実、真面目、元気」という方が一番活躍していただけると思っています。ちょっとありふれていますかね(笑)
地域で50年以上続いている会社ですので、社員にもベテランが揃っています。そんな会社に新しい風を吹き込んでいただきたいですね。もちろん入社したてのころは元々いる従業員とすり合わせが必要な部分もあるかと思います。そこをネガティブに感じるのでなく、しっかりと受け止めていただけるような方だと中期的に活躍できる環境を自らつくれるのではないかと考えています。
ベテランが多いということは、離職率が低いということです。長く働ける、働きたいと思える環境は提供できているのかなと思います。ベテランも積極的に若手に声をかけていますし、新しい方を受け入れていく文化はウチの良いところだと思いますよ。
入社後のステップはその人に合わせてアレンジしていきます。工事関係や配送・取り付けといった業務に興味があれば先輩社員と一緒に現場を覚えていただくことになりますし、営業関係であれば商品知識や廻り先を頭にいれるところからになるでしょう。私と一緒に客先にお邪魔したり、商談を行うことも視野に入れています。必要に応じて社外の研修を受講していただくこともありますね。この業界の経験者の方は大歓迎ですが、未経験の方ともぜひお話したいなと思っています。どちらも良いところはありますし、経験の有無だけでなくその人と当社の相性のような部分もありますから。仕事はいくらでもお教えしますので安心してもらえたらと思います。
好奇心を持ちつづけることが活躍の源泉
株式会社保坂屋で活躍している人の共通点は好奇心が強くて明るい人かなと思います。最初は覚えることも多いでしょうし、我々自身も今後どんどんと伸びていこうという会社です。その中で受け身ではなく、色々なことを面白がって自ら情報を取り動いていく方は自然と結果もついてきますよね。
繰り返しになりますが、私たちの商売は地域に住んでいるお客さまの人生に深くかかわっています。自分たちが販売したり、取りつけたり、直した機器や住宅がその後何十年もそのお客さまの毎日に寄り添うのですから。そんなところにやりがいを持てそうだなと、感じる方はどうぞお気軽にお問い合わせ下さい。皆さまとお話しできることを心から楽しみにしております。
最後までお読みいただきありがとうございました。